だるログ

関西在住アラサー男子の備忘録。アニメとかいろいろ。

【1995年1月17日5時46分】阪神淡路大震災を振り返る。

どうもmotosaaaan@です。
たまには真面目な記事でも書こうと思います。
イムリーに投稿出来なかったのが本当に悔しいけれども。

今から23年前の1月17日
阪神淡路大震災で被災しました。
自分が6〜7歳、小学校に入学する年のことでした。

当時自分が住んでいたのは兵庫県神戸市。
一番被害が大きいと言われていた市に住んでいました。

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1月17日5時46分

もちろん地震が来るなんて誰も想像しませんし、6歳の子供が起きている訳ないですよね。

起きたのは親父の声でした。
地震や!大丈夫か!?
今思うと親父から発した声の中で1番大きな声だと思います。
自分と妹は2段ベッドで自分が上、妹が下。
そしてリビングを隔てて親父、母の寝室…
でした。

幸いにも台所から離れていたのと火事の原因になるようなものやガス漏れはなかったので二次災害はありませんでした。

そして親父が自分と泣きじゃくる妹を抱えて母のいる寝室に避難しました。

そして本震が収まった後4人で布団で明るくなるまでくるまっていたのを憶えています。

夜が明けてから。

余震が続くなか、親父がラジオをつけて被害状況を確認していました。
当然ライフラインは断たれていたのと、自宅マンションの同じ階の家族に確認を取りに行き母は滅茶苦茶になった食器の片付けを。
当時住んでいたのは社宅だったので周りはほとんど知り合いだったのでコミュニティとしては密だったはず…。


幸い、社宅での重傷者や死者はいませんでした。

未曾有の大災害。

そしてラジオからは「大変な事が起きました!」など情報が錯綜し、何処がどうなっているのかすらわからない状況だったはず。
我が家では食器はほぼ割れてタンスが倒れ、倉庫が少しへしゃげていました。

一先ず外に出ても周りでは地盤沈下が起きたり、フェンスがへしゃげたり車が横転していたりとホントに無茶苦茶でした。
ある意味「地獄」を経験した気がします。
当然「他所はもっと酷い」なんて思うとゾッとしました。

ケータイも普及していない時代なので親父が山を降りた先で公衆電話から身内に生存報告をしていたり、被災したであろう身内には避難先であろう小学校に電話していました。
大叔母の家が倒壊し、無事に避難できた以外身内には不幸はありませんでした。

ライフラインが復旧しない。

1番大変だったのは水の確保でした。
自分が住んでいた地域から避難場所までは歩いて40分ぐらいだったと思います。
我が家は倒壊はしなかったので避難所では生活せずに済みましたが
先に書いたとおり、地盤沈下で車がろくに通れないような道だったので、水を取りに行くだけでも大仕事でした。

その次が食事です。
避難所に行けば炊き出しを貰えるのでなんとかはなるのですが、やはり炊き出しの時間は未定なので日によっては毎日食べれなかったはず。
当然、流通もストップしているので近くの生協でもいつでも買えるなんて事はありませんでした。

そして風呂です。
しばらくはポリタンクの水をカセットコンロで沸かして体を拭くぐらいしかできませんでした。
一週間ぐらい経ってなんとか道は通れるようになったので社宅の数世帯で無料で開放してくれた銭湯によく行ったのを憶えています。

最高の豚汁

1番の贅沢だったのが自衛隊の豚汁
ある時自衛隊が向かいの駐車場で炊き出しと配水をしてたんですが、その豚汁が最高に美味かった!
本当に普通の豚汁なんでしょうけども、言うところの「富士山の山頂で食べるおにぎり」みたいな補正ですね。
これだけは本当に忘れられない味ですね。
未だにその豚汁の情景は目に焼き付いていますね。
もっと言うなら走馬灯ランキングNo,1だと思います。

もしこのブログを通して当時の炊き出しをしていた自衛隊員さんが見てくれてたら一言お礼を言いたい。

あの豚汁、最高でした!いっぱい食べてスクスク育って今や立派なメタボです!
ありがとうございます。

まとめ

以上が自分が体験した阪神淡路大震災です。
地震は怖いです。
本当に。
その一言に尽きます。



自分はその後東日本大震災の復興ボランティアに行きました。
幼少の頃の地震の体験よりも圧倒的に規模が違いました。

そのボランティアに関してはいずれ書きたいと思いますがそれはまた別の機会に。

それでは、阪神淡路大震災で亡くなられた方へ
黙祷。